全ての定説は仮説である

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欲望的幸福を求めた結果、宗教の礼拝へ至るー礼拝は依存させるためにあった

昔から凄く不思議だったんです。
なぜ宗教には礼拝があるんだろうか、と。
一日何回も手を止め、わざわざ礼拝室へ行き祈ったり感謝する、物凄い時間無駄にするのになんであるんだろう、するんだろうって不思議じゃありませんか?

最近、脳科学を学ぶなかで”なるほど”と、この問題の答えが見つかりましたので、解説しようと思います。
先に答えを言ってしまうと、”礼拝により幸福感や安心感を覚えさせ、それを日々繰り返すことによりその宗教自体に依存させ、離脱しないようにするため”です。
順を追って解説していきましょう

脳内物質の威力

まずはこの話の肝になる脳内物質について解説します。
多数ある脳内物質の中から、今回は幸せや安心感に関係する物質、セロトニンドーパミンが中心になります。

さて、まずはこのドーパミンの威力を理解してもらうために、あるマウスの実験を紹介します。
マウスの脳に電極を埋め込み、レバーを押すとドーパミンが放出されるように施されたマウスの実験です。
レバーを押すと快楽、幸福感が出ると分かったマウスは、レバーを一時間に7,000回というペースで押すようになったそうです。
さらに、食事を近くにおいても、発情しているメスを近くにおいても目もくれず、死ぬまでレバーを押し続けました。

つまり、脳内物質が食欲や性欲など基本的欲求に勝ったんです。

「それはマウスだけの話でしょ?」
いえいえ、実は昔、人間でも似たような実験が行われ、人間もゲームのボタンを連打するかのように、ひたすらボタンを押すようになったそうです。

これらの実験の様子は、”脳内物質”という中川信子さんの著書に詳しく書かれていますので、気になる方はぜひ読まれてみてください。

脳内物質による依存症の危険性

さて、このセロトニンドーパミンは何も電極を頭に埋め込まなくても放出されます。
通常は、
・楽しいことをしているとき
・目的を達成したとき
・他人に褒められたとき
など問題がなく、むしろ好ましい状況で放出されます。

しかし、これが依存症に繋がる場合があるんですね。
上記の他にも、以下のような状況で放出され、その快楽からその事柄をやめられなくなり、依存症になるんです。
例えば、物質的にはニコチン(タバコ)やアルコールを摂取したとき、行動においてはギャンブルや夜の営み、恋愛や宗教などです。

説明するまでもないですが、これらに依存すると、最悪の場合身体的、または金銭的、人間関係が破滅してしまいます。
依存症というのは非常に怖いものであることは、ご存知の通りです。

生活を破滅させず、後天的、人為的に脳内物質を分泌できないだろうか?

さて、脳内物質の威力を分かっていただけたと思いますが、次の疑問が浮かびます。
”生活を破滅させないようにしながら、後天的、人為的に脳内物質を分泌できないだろうか?”
これができたら、凄く幸せですよね。
食欲や性欲をも上回る快楽を自分の思い通りにコントロールできるんです。
でも、そんなこと可能なんだろうか?

ここで注目したいのが、次の脳内物質が分泌される条件の一つです。
・目的を達成したとき

わかりやすく言うと、目標としていた学校に合格できた、目標の会社に就職できたなどなどです。
あれ?これって後天的に身に着けた目標ですよね?
まさか生まれたときから、良い学校に合格したい!なんて思わないわけです。
そもそも日本以外じゃ学校すらないとこも多いですからね

つまり、後天的に、自分の意識的に、目標を設置することができ、さらにそれを達成することによって、脳内物質が分泌され、達成感・幸福感を感じることができるということです。

しかし、受験なんて数年に一度ですし毎回では疲れてしまいます。
もっと気軽に、これを達成できないだろうか?努力を必要とせず、しかし、やるべきこととし、それを行うことで達成感、セロトニンが分泌される・・・
あれ、それって宗教の礼拝じゃありませんか?

礼拝を定めることで、信者はそれを行いセロトニンなどが分泌される

簡単に言うと、宗教において礼拝を行うよう定めることで、
それを達成することでセロトニンの分泌を促し、幸福感、安心感を覚えるわけです。
日本人にわかりやすくいうと、仏教において
南無阿弥陀仏を唱えなさい、そうすれば何事も大丈夫だ」
というのがありますよね。
実際、そこまで仏教を信じていなくても、
”そうか、じゃぁ唱えてみよう...南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏...”
少し、安心感を覚えませんか?セロトニンが少なからず分泌されているんです

さて、これら礼拝を毎日毎日行うことで、脳内物質が分泌され、それが日常化していきます。
これは依存症の過程によく似ています。

宗教をやめる人の過程は、依存症の離脱症状によく似ている

実際に、宗教を離れることを決めた人の手記やエッセイを読んでいると、依存症の離脱症状によく似ています。
例えばそれまで毎日行っていた礼拝をやめたときや、掟で”結婚するまで夜の営みは禁止”と定められていたのを破ったとき、宗教をやめると頭では理解し、決意していても、皆さんしばらくの間焦燥感や不安感を覚えるようです。

このことから、やっぱり礼拝をやめれない、宗教に戻るという人も多数いらっしゃるようですね

このように、宗教における礼拝を定める理由とは、礼拝を定めそれを達成させることで脳内物質を分泌、さらに日常化させることで依存状態にし、宗教から離脱することを妨げるというわけです

昔は脳内物質の存在なんて明らかになってなかったわけですから、教祖の方は実際の経験的に分かっていたんでしょうね
日本の天皇の継承条件、男系男子に似たような、科学などはなくても経験的に分かっていた、という不思議なものですね。